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2014年2月 第121話 夜叫と夜鷹

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1800年代の初期に江戸には約3800軒の蕎麦屋がありましたが、これには時代劇などでお馴染みの屋台の蕎麦屋は含まれていません。この数は統計には残っておりませんが定住の蕎麦屋と同数又はそれ以上と考えられます。それらの蕎麦屋は「夜そば売り屋」と言われ、
江戸は元より京・大阪でも独立した商売として成り立ち、多くの川柳にも登場しています。
夜売りそばの発祥も定かではありませんが、1600年代中期には禁止令やお触書が出ている事から考えるとそれ以前16世紀と言われております。

「夜そば売り屋」の道具立ては多くの錦絵にあるように、天秤棒の前後に2尺角程度(約60cm)の屋台を2つ吊るし、火は七輪を用いそれに鍋をかけ、蕎麦は予め茹でた玉を箱にいれ、汁は貧乏徳利に入れて、
お客の注文があるとしゃぶしゃぶのように沸かしたお湯で蕎麦を温め丼にあけ、汁をぶっ掛けた「かけそば」を売っていたようで、現在の立ち食い蕎麦の原型に当たります。
江戸では多分、長屋で蕎麦を作り、夜になると重い荷を担いで自分の決めた場所に出張し店を開き、何箇所か回って朝方まで営業していたと思われます。

この時代、江戸や京・大阪と言った都市部での防災の最大関心事は「火災」でした。
その意味から七輪のような持ち運び可能な「火」は便利である反面、大変な危険性を持つ事になり、夜間の営業禁止令が幕府によって出されたと言う記録もあります。余談になりますが、当時の火を使う商売屋(天麩羅や鰻や蕎麦)が江戸湾の近くや川沿いや池のそばに多いのはそのためかと思われます。


さてこの「夜売りそば」の異名・愛称が「夜鷹(よたか)」「夜叫(よなき)」です。
江戸では夜売りそばの客がもっぱら私娼の夜鷹だったからと言う説や、夜鷹が花代10文で商売をしていた事から10文売りの夜そばを「夜鷹そば」と言うようになったと言う説があります。
通常の蕎麦の売値は16文、夜鷹の花代は24文だったそうですから、低級で不衛生の代名詞であった事が多くの川柳からうかがわれます。

江戸にはもう一つ「風鈴そば」と言う呼び方もあり、こちらはかけそばの上に「かやく」をのせたもので現在の「種物」です。1ランク上の高級「夜売りそば」と言ったところでしょうか。
一方京・大阪では、夜間の商いやそれをする商人を「夜叫」と言い、夜間に声を出して触れ歩いた事からそう呼ばれるようになったと言われています。 関西ではうどんが中心であったと「蕎麦史考」には書かれていますが、
江戸の川柳には夜売りの「うどん」は一つも出てきません。