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2016年6月 第132話  江戸の町名

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江戸時代が伝える数々の文化遺産の一つとして版画の古地図があります。
当店にもこの地域の古地図版画が残っておりますが、私が子供の頃当地は「芝七軒町」と呼ばれていました。7軒の長屋と大家がいたという所からの命名と聞いております。現在の「芝大門」は七軒町・宮本町・三島町・中門前・片門前といった旧町名を当地のランドマーク「大門」にまとめたものですが、町名変更は整理された正確さと統一感は有りますが、その地の歴史や伝統を消してしまった寂しさを今更ながらに感じさせます。
 商人の町・職人の町として隆盛を極めた江戸の町名には屋号や職名、移住者の出身地名、武家町には役職名から付けられたものが少なくないようです。
例えば屋号や職名では、伊勢商人の様々な職種の「伊勢屋」が集まった地域「伊勢町」や藍染屋の集まった「紺屋町」、大工の町は「大工町」、鍛冶屋が集まれば「鍛冶町」、左官職人の町は「白壁町」、鋳物師には「鍋町」といった具合である。
出身地・役職関連では家康の駿府出身の家臣達が入った「駿河台」、大阪佃村の漁師が入植して築いた島は「佃島」となり、代官などの屋敷が配置されれば「代官町」、下級武士(番衆)の長屋ができれば「番町」と命名されたそうです。
 文献によりますと江戸にできた最初の町人町は日本橋の「本町」と言われています。この本町を中心に日本橋が一大商人町を形成し、それと相対する形で橋の向こうに職人町「神田」が作られました。
先に書きました、紺屋町・鍛冶町・鍋町・大工町・白壁町等は神田周辺の旧町名です。江戸下町の名残が強く感じられます。当地周辺は商人・職人町とは違って「徳川の菩提所・芝増上寺」と「鎮座壱千年を経た芝大神宮」と言う門前・寺社町&参拝客による歓楽街ですので、それに見合った旧地名が残っているのです。
この様な江戸の町作りによって、地域内の強い結びつきや同業・同郷と言った仲間の連帯意識が生まれ、後に伝わる「江戸っ子」と呼ばれる人々と気質が誕生して行く事になります。
私どもも江戸っ子の端くれとしてその起源や概要には大変興味の有るところです。お蕎麦から離れて江戸の勉強を兼ねて調べてみようかと考えております。
しばらくの間お付き合いの程をお願い致します。