2026年6月 第195話 通貨
コロナ禍が収束してからインバウンドのお客様が増えてきたのは有難いのですが、昨今の円安は輸出立国の我が国には強力な追い風ですが、反面食料の自給率の低い日本の飲食業界には深刻なアゲインストとなっています。
中東の情勢不安によるエネルギー価格の上昇に始まり、輸入品の高騰とそれに引っ張られての国産原材料の一度ならず二度三度の値上りがボディブローの様に効いてきています。と言って嘆いてばかりもいられませんので、格成る上はやむを得ない値上げも視野に入る昨今です。通貨の換算レートの変動は今も昔も存在する問題で、江戸時代の日本でも大きな問題となっていました。この時代の通貨は極めて理解しがたいのです。金貨・銀貨・銭貨の三種類がある事はご存知かと思いますが、この三貨がそれぞれ独立しており、しかもその間の換算率が一定ではなく絶えず変動すると言った具合なのです。公的には幕府が定めた金一両が銀五十匁、銭にすると四貫文(4000枚)と定められていたのですが、これは有って無きもので民間の時価相場で動いていました。例えば幕府が飢饉などによる財政窮乏から金の含有量を下げた通貨を出すとたちまち、交換率が悪化するといった具合でした。そんな三貨制度のためか政治の中心江戸には両替商が数多く有ったそうです。俗に「関東の金遣い」「上方の銀遣い」と言わ
れるように高額取引のおいては東国では主として金が、西国では銀が使われていたそうです。また身分によっても使用する通貨が異なり、上級武士は大体が金貨、下級武士と商人が銀貨、庶民と農民が銭貨となっていました。埋蔵金は金で、へそくりは銭だったのでしょう。さて金貨の単位は一両小判や一分金、一朱金。銀貨は五匁銀や一分銀と言ったなまこ型やマメ型。銭貨は銭形平次や真田六文銭でもおなじみの丸型で寛永通宝がその代表でした。この銭貨が初めて鋳造されたのが寛永13年(1639)で以後幕末まで鋳造されました。金が金座、銀が銀座で作られたように当地芝がその新しい銭の鋳造地で「芝新銭座」と言う地名が付けられ、現在の港区浜松町一丁目、海岸一丁目、東新橋二丁目がそこに当たります。三田に移転する前の慶応義塾があった場所でもあり記念碑が建てられています。さてこの庶民の通貨であった銭貨ですが同じ百文で買える米の量は享保十八年(1733)で一升三合だったものが慶應三年(1867)では一合一勺と約十三倍の驚異のインフレ物価高との記録があります。物価上昇と賃金上昇がリンクして景気のアップにつながる事を祈るこの頃です。




